◇ある教師は,子ども受けは良いのだが,教育技術や方法は不十分だった。
傍目で見ていると,明らかに行き当たりばったりの指導が目につく。その場の思いつきで,指導をしているのである。
一方,別の,ある教師は,あまり子ども受けはよくないのだが,しっかりとした教育技術や方法を身につけていた。
だから,毎年受けもった子どもたちは,勉強ができるようになった。
水泳を教えると,子どもたちは明らかに一ヶ月で上達していたし,作文もみるみるうちに上達した。
学級の平均点も上がり,勉強が好きになる子どもが増えた。
◇しばらくして,子ども受けの良い教師の方が,突如転勤することとなった。
子ども受けが良いので,子どもたちはみんな別れのときに涙した。多くの感謝の手紙がその教師に渡された。
それを見ていた私は,何だか心に「もやもや」したものを感じた。
結局は,学級の子どもたちは勉強ができるようにならなかった。いや,もっと言えば,授業をつぶして,お説教の時間も長かった。よく教室では教師の怒鳴り声も聞こえてきた。
実は,これは私の子ども時代の体験である。
私を含めた子どもたちは,日々の長い長いお説教や,授業がつぶれること,授業がおもしろくないこと,そんなことをまるで忘れて,最後は教師との別れに向き合っていた。
しかし,最後の最後,学校からその教師が出て行く段になって,なんとはなしに心にもやもやしたものを感じたのである。
この光景は心に刻み込まれている。もし私が教師になったときには,同じ轍は踏まぬようにしようと・・。
◇ブラックジャックの論争というものがある。
ブラックジャックとは,手塚治虫の漫画に出てくる医者のことである。
多少愛想が悪くても,腕の良い医者は,病気や怪我を治してくれる。
それが,医師としての矜持だからである。優れた医療技術や方法を身につけ,治療を成功させることが医者の仕事だからである。
愛想がよくても,本も読まず,学ばず,医療技術や方法を身につけていない医者のことを誰が信用するだろうか。
子どもならだませるかもしれないと考えるのは甘い。
子どもだって,見抜く目をもっているものなのだ。
この教師は「ニセモノ」なのだと。
◇教育界にも,人間性が大事か,それとも,技術や方法の方が大事かという論争が,ずっと続けられている
どちらも大切なのは言うまでもない。
しかし,人間性があれば,いつかは技術や方法が身につくという論があるから,おかしなことになる。
人間性があっても,いつまで立っても技術や方法は身につかない。
これが現実だからである。
技術や方法は,学ばなければ,身につかない。
強い意志をもって,技術や方法を身につけようと決意して,実際に努力を自分に課さないと,いつまでも腕は素人のままである。
問題はもう一つある。
人間性だけが高い人が教師になると,技術や方法によって,子どもを伸ばせないので,現場に絶望してしまうということである。
現場に絶望した,絶望までいかなくても,失望してしまった教師がどうなるか。
余計に学ばなくなる。
それだけならまだましだが,今度は,人間性もおかしくなってくる。
毎日毎日,怒鳴ってばかりの日々が続く。
それでも子どもは伸びない。変わらない。
だんだん疲弊してくる。精神も病みがちになってくる。
こうして,技術や方法だけでなく,人間性も低い位置に落ち着いてしまうのだ。(エネルギー(この場合情熱と言い換えてもよい)が,低い位置で安定するのは,科学の世界では常識とも言えることで,いかに教師とはいえ,この法則から逃れるのは難しいのである・・。)